第2章 マウントレバノン・シェーカー集落  —集落の情報、歴史、建設活動、19世紀集落の構成、現在—

2-1. マウントレバノン・シェーカー集落について

2-1-1. マウントレバノン・シェーカー集落の位置づけ

ニューヨーク州の首都であるオルバニーより南東に約35km離れ、マサチューセッツ州とのボーダーの目の前に位置する。集落はソサエティの中でもいち早く建設され、シェーカーたちが初めて秩序への集結(Gathered into order)を果たしたのも、この地であった。
マウント・レバノン集落は、ゴスペル・オーダーが施行されシェーカー・ソサエティが設立されると、その1番上に立ち、総本山として機能していた。当時はニューレバノンと呼ばれており、1861年よりマウント・レバノンと名前が変更された。
総本山として毎日の生活、シェーカーの信仰の秩序を司るだけでなく、地上のシオンとして他州に存在したシェーカー集落の憧れの地であった。

2-1-2. コミュニティの歴史と建設活動

マウント・レバノンでのシェーカー の歴史は、1780年ごろから始まった。のちに第3代指導者となるジョセフ・ミーチャムは、当時はニュー・レバノンと呼ばれていたこの地にてバプティスト派の牧師をしていた。アン・リーの噂を聞きつけると、彼女を訪れにウォーターヴリーへ行き、その場で改宗した。その後、ミーチャムの属していた教会の会衆たちも続々とシェーカーとなり、このニューレバノン・コミュニティは膨れ上がっていった。
1786年には、建設活動が開始された。シェーカー独自のミーティング・ハウスを建設し、翌年にゴスペル・オーダーが施行されると、すぐさまこのコミュニティのメンバーは集落建設に励んだ。

“Early in 1795, the oral covenant which had been voluntarily entered into by the members of the Church Order was committed to writing and became a legal instrument for their protection and a visible bond of union.
Such devotion of body, soul and spirit was exercised by these brethren and sisters living in the harmonious relation of a united interest,
a Heavenly Kingdom, so rapidly did they accomplish the upbuilding of the visible City of Zion, that in seven years, from 1788 to 1795, the appearance of the village was completely transformed.”

White, Anna and Taylor, Leila S.『Shakerism: its meaning and message』p. 81より引用

1795年の初め、チャーチ・オーダーのメンバーが結んだ⼝頭での契約は、⽂書にされ、彼らを守るための合法的⼿段となり、そして⽬に⾒える団結の絆となった。
このように、天の王国という共通の⽬的のもとで暮らすブラザーとシスターは、⾝体、魂、精神と全⼒を尽くし、
⽬に⾒えるシオンの都市の設⽴を急速に成し遂げ、1788年から1795年の7年間でヴィレッジの様相は⼀変した。(日本語筆者訳)

以上の引用よりわかるように、約7年間シェーカーたちは集落を作るのに全力を尽くした。この際にヴィレッジ、集落内で建設された建物は、Stephen J, Stein著の『The Shaker Experience』に記載されている。以下に、建設の活動内容をまとめる。

• 1786年: ミーティング・ハウス
• 1787年: ソサエティ参加
• 1788年: ドウェリング・ハウス (Great House)
• 1789年: ドウェリング・ハウス(Little Brick House) 1790年からは少⼥たちが住み始める。
• 1790年: Bake House: 住居。少年たちが住み始める
• 1791年: Dwelling House for Second Family: セカンド・ファミリーの為の住居。
• 1791年: Dwelling House for Elderly Peoples: 年配のシェーカーの為の住居。
• 1791年: Spinning House:
• 1792年: Dwelling House for the Youths and the Children: 若い世代と⼦供たちの為の住居
• 1792年: Store as the Deaconʼs Office: 外部との仕事のやりとりをするディーコン のオフィス
• 1793年: Kitchen: 料理をする専⽤の場
• 1795年: Shop: Brick Houseの⻄に位置し、シスター⽤の仕事場。

この様に、シェーカー たちはすべてのメンバーの為の住居を1792年までに完成させており、その後にシスターとブラザーの労働・作業場、トラスティの商業を行うオフィス、離れの台所などが続々と建設された。

2-1-3. マップから見る集落の構成

図1: シェーカー・マップ: ニューレバノン ヴィレッジ全体 (1842-1848) [情報] ヘンリー・ブリン(Henry C. Blinn)によって1842年から1848年に描かれたとされている。[形態] Pencil, ink, and watercolor, 26 1/2” x 77 3/4” (67.3 x 197.5 cm) [出典] Robert Emlen 『Shaker Village View』

図2: ニューレバノン ・シェーカー集落のファミリー配置構成 [出典] 図1のマップに筆者が加筆。


マウント・レバノン(当時のニューレバノン)の人口は1803年に351人、1842年には最高人数の615人もが集落にてシェーカーとして生活をしていた。
この当時の集落の様子が、以下のヘンリー・ブリン(Henry C. Blinn)という1人のシェーカーによって描かれたマップにて確認する事ができる。(図1)

図1のマップを使用し、ファミリーの位置と大きさをダイアグラム化した(図2)。これより、チャーチファミリー、2nd オーダーファミリー、2nd ファミリー、サウスファミリー、ノースファミリーの5つのファミリーが存在した事が確認できる。実際には当時、イーストファミリーともう2つカナン地区にファミリーが存在したが、マップには描かれなかった。
このマップ上では、5つのファミリーは一直線上に並び、この道は現在はシェーカー・ロード(Shaker Road)と名がつけられている。もっとも信仰の深かったメンバーが属したチャーチファミリーが1番大きく描かれ、このファミリーを外部への層をつくる様に他のファミリーが位置している。

この一本線の形状の理由はいくつか挙げられる。1つは、それぞれのファミリーは互いの地を踏んではならなかったことと、2つ目に経済的に独立していなければならないといったことである。この閉鎖的要素と俗世に対する関わり方が起因し、一直線型の集落配置構造が好まれたのではなかろうか。
というのも、それぞれのファミリーにて財政管理を行うトラスティは、俗世と商売を行い、時には外部からの人を受け入れたり、もしくは集落で生産された家具やハーブや種子などを外に運ぶ必要があった。この際に、各ファミリーが公道に面している事で、他のファミリーの地をまたぐ事なく直接外に行く事が可能であった。同様に、外からの訪問者の動線も同じであり、少しでもシェーカーのシオンの地である場に外部のものを踏み入れさせないといった配慮が可能であった。だからこそ、公道に沿ってフェンスがぎっしりと施されており、各ファミリーの建物群もフェンスにて区分けされていたのだと考えられる。
シェーカー集落では、居住や各労働の作業用途によって部屋ごとだでなく、建物ごとに振り分けられていた。そのため、集落内は大きく見て1つの空間であり、その中の区分けをフェンスにて行い、さらに建物の壁が空間を分け、さらに細分化されていた。この空間の分け方は、集落内にてとても明確であったのだ。

2-2. マウントレバノン・シェーカー集落、現地調査

2-2-1. マウント・レバノン・シェーカー集落跡地

2022年、9月13日、マウント・レバノン・シェーカー集落の跡地を訪問した。
集落跡地へは、ニューヨーク州マンハッタンのペン・ステーションよりアムトラック(特急列車)にてハドソン駅まで北上し、駅より車にて移動し、朝10時ごろに到着。ペンステーションより約2時間半の道のりであった。
集落は国道20号と22号に挟まれた立地であるが、両側ともに林に囲まれ、車道の音などは聞こえにくかった。集落では、チャーチ・ファミリーとノース・ファミリーが在住した場にて調査を行った。

2-2-2. 集落の現在の使用方法

シェーカーたちはこのマウント・レバノンのノース・ファミリーに1947年まで在住し、その後は近隣のハンコック・シェーカー集落に移動し、この集落の幕は閉じた。その後集落跡地の全体は、アメリカ合衆国国定歴史建造物として扱われている。
チャーチ・ファミリーのあった、集落の中心部は、1932年より教育地区となり、現在はダロウ・スクールというボーディングスクールが集落跡地を使用し、シェーカーの建設した建物群を生徒の授業部屋、図書館などとして使用されている。
いくつかの建物は、アーティスト・レジデンスの為に使用されており、訪問時もアーティストが作品を制作する為に滞在しているのが確認できた。
ノース・ファミリーの地は、ダロウ・スクールによって使用されているとともに、個人住居として使用されている。

図3: 2022年現在のマウント・レバノン集落跡地のマップ。右側側が北。[出典] Darrow Schoolのウェブサイトより (最終閲覧2022年10月25日) https://www.darrowschool.org/

ダロウ・スクールのウェブサイトより、現地のマップを取得できた為(図3)、このマップを手に当日は現地調査を進めていった。以下、建物名称と番号はダロウ・スクールからのマップ(図3)の記載に沿って明記する。
また、筆者執筆の修士論文にて作成した、1830年代のニューレバノン (当時の名称)集落チャーチ・ファミリー内の建物配置構成ダイアグラム(図4)を使用し、現在の建物の名称と以前の使用用途を比較して本報告書を進めていく。この図4は、シェーカーの1人であったアイザック・ヤングス(Isaac Newton Youngs)によって1820ー1830年代に描かれたとする図5のマップを元に作成した。

図4: 1830年代ニューレバノン集落の建物配置構成ダイアグラム。筆者作成

図5: ニューレバノン 集落全体のマップ [情報] 1827-1839年に描かれたもの。Pencil, ink, and watercolor on paper。15 7/8″ x 24 5/8″ (40.3 x 62.5cm)。[出典] Robert Emlen 『Shaker Village View』

2-2-3. チャーチ・ファミリーの現在の様子と建物群

シェーカー・ロードの北よりチャーチ・ファミリーに向かうと、まず始めに見えたのは21番のNeale Houseであった(図6)。レンガで建てられたこの建物は、シェーカーが住んでいた際は、トラスティーが外部の者と商業を行う場、オフィスであったと考えられる。さらに進むと、右側に池があり、これはタナーズ・ポンド(Tanner’s Pond)と呼ばれ、⽪なめし職⼈によって使用された水源地であり、池の前の建物が職人が作業をした14番タナリー(Tannery)である(図7)。

図6: チャーチ・ファミリーの様子、シェーカー・ロード北側より。筆者撮影。

図7: Tanner’s Pond。シェーカー・ロード上より西向きにて撮影。

図8: シェーカー・ロードの横に位置する細道。16番Wickershamより北向きにて撮影。

池の南側には石板の細道がシェーカー・ロードと並行して存在し、いくつかの建物を結んでいる(図8)。写真に写っている様に、そこには2つの石の柱があり、これは過去にフェンスがあった場所であるとともに、集落への正式な入り口が存在した場所でもある。石柱の目の前に低く置かれている棒は、馬を留めておく場であったと考えれる。
この石板の道が繋げるのは、5番 Whittaker House(図9、用途不明)、17番 Hevruger Memorial Library (図10、図書館)、15番 Ministry(図11、用途不明)、16番 Wickersham (図12、授業部屋)である。
1830年代のマップと比べると、用途が変化しているのが確認できる。5番は3番のスクールハウス(School House、子供達の教育の場)、17番は1番ミーティング・ハウス(Meeting House、シェーカーの礼拝を主に行った場)、16番は2番グレートハウス(Great House、住居)であった。15番ミニストリー(Ministry)は1830年代には存在しなかったが、その後に建てられ、集落のリーダーである4人のミニストリーが居住、労働を行った場であった。
この4棟の建物は集落において核となる役割をしていたこともあり、集中して群をなしていたのだと考えられる。
しかし、グレートハウスは1870年に火災にて倒れた記録がある為、現在は授業部屋として使われている16番Wickershamはその後に建てられたものである。

図9: Whittaker House

図10: Hevruger Memorial Library

図11: Ministry

図12: Wickersham

2-2-4. ノース・ファミリーの現在の様子と建物群

ノース・ファミリーは、チャーチ・ファミリーの北側に100メートルも離れていない場に位置している。ノース・ファミリーの敷地に南側より向かうと、穏やかな坂を登る(図13)。
坂の上の右側にはミーチャム・ハウス(Meacham House、用途不明)という、ジョセフ・ミーチャムにちなんだ建物がそびえ立っている。1階部分は石造りの構造であり、2-4階と屋根裏部屋をもつ、シェーカーの建物の中では比較的高層に建設されてたものである(図13、14)。
その向かいにはピンク色の小さな軒をもった2階建て家屋があり、HIRELINGS’ HOUSE 1840 FARM DEACON’S SHOPと表札がでている(図15、16)。ディーコン(Deacon)とは、ミニストリーが集落の精神面をリードする役割をもっていたのに対し、労働面でのリーダーの役割を果たしたメンバーの役職である。さらに北上すると、いくつかの建物を確認する事ができた。

図13

図14

図15

図16

図17

図18

暗めの赤い外壁を持つのがグラナリー(Granary、穀物貯蔵庫)があり、入り口上部に出っ張り部分をもっている(図17)。これは、手動エレベーターであり、穀物を上層階、下層階に移動するのに使用していた。また、他の建物には見られない、窓を覆う鎧戸がきたと南側に施されていた。
次に目に止まるのは、納屋(Barn)であったが、他の建物に比べて保存状態は著しく悪い(図18)。基礎は、土地の高低差に対応する為に、一部上げられている。この納屋は現在は使用されておらず、シェーカーたちによる具体的な用途も不明である。しかし、屋根にはキュポラ(cupola)が2つあったり、2階部には数多くの窓がついている為、空調設備と日射を取り入れる必要があったことが伺える。

マウント・レバノン集落において1番大きな規模の建物は、北側の最短に位置するグレートストーン・バーンであった(図19,20)。この石造構造のバーンとしては、北アメリカにおいて最大のものと考えられてもいる。
多くの部分はすでに存在しないが、外壁の大部分は鉄ビームにて補強されながら残っており、約150年ここに建っている。
外壁の角にはクオィンズ(quoins)が施されており、構造だけでなく美観にも気を配った様子が伺える(図21)。また、外壁の石は風雨の影響を受けたのか、凸凹とした表面ではなく滑らかになっているが、内側の壁を見ると様々な大きさの石が積み重なっており凸凹とした様子が伺えた(図22)。
2階、3階部分の内壁を見るとプラスターで覆われており、スラブがどの位置にあったのかがはっきりと確認できた。
そしてこのバーンの北側にはノース・パスチャー(North Pasture Trail)と呼ばれるハイキング・コースの出発地点があり、北側の地図を確認する事ができた(図23)。これを見ると、牧草地が広がり、石づくりの壁によって動物たちの区分けがされていたことがわかる。実際には、グレートストーン・バーン自体も種類の違う牛たちを北側と南側に分けるのに貢献していた。

図19

図20

図21

図22

図23

図24

 

2-2-5. 無柱空間のシェーカー・ミーティング・ハウス

ミーティング・ハウスとは、シェーカーたちが集会という名の礼拝行為を行っていた場であり、神からのギフトを受け取り歌ったり踊ったり、トランス状態になってはその独自の礼拝運動を行った場である。
初期のシェーカーの歴史上、1770年代にイングリッシュ・シェーカーがウォーターヴリーに定住し始めてからは、自分たちで建てた小屋にて礼拝を行なっていたが、この小屋は礼拝活動意外にも使用されていた。各地でシェーカーに改宗した新たなメンバーたちは、このウォーターヴリーの小屋を訪れたり、宣教の旅の際はメンバーの家を集会場として使用していた。そしてメンバーが増えていくにつれ、特定の地域のシェーカー グループはコミュニティとして認識される様になっていった。この時点で、いくつかのコミュニティは集会専用のミーティング・ハウスを立て始めた。しかし、多くのコミュニティは集落を建設しその場に秩序への集結をするということがソサエティとして決断された際に、はじめてミーティング・ハウスを建設し始めた。

どのシェーカー集落においても、ミーティング・ハウスは常にチャーチ・ファミリーもしくはセンター・ファミリーと呼ばれた、もっとも信仰心の強いシェーカーが在住したファミリーの中心に建てられた。外壁は常に白であり、これは神聖さを集落内にて際立たさせる為にも、他の建物は白いペンキを使用しないと決められていた時期もあった。
シェーカーになるという事が生活に及ぼす影響の度合い、俗世からの認識の変化などを考慮すると、シェーカーと集落を建てるという事は繋がる様になった。その中で、ミーティング・ハウスなしの集落は存在せず、ミーティング・ハウスが正式に立てられてから、その場を集落として認識できたと筆者は考える。

図25

マウントレバノン・シェーカー集落の最初のミーティング・ハウスは、1785年に建てらた。以下に棋王研究に記載された建設経緯の内容を引用する。

“In 1785, the first Meeting House at New Lebanon was already under construction when a skilled Shaker builder named Moses Johnson arrived there. Father Joseph gave him the task of finishing it, and it is no coincidence that the building had a gambrel roof. Perhaps Johnson was responsible for using exposed, closely spaced beams and knee braces on the interior; these building techniques have been identified with the Dutch. In any event, every Shaker community gathered during the 1790s constructed a Meeting House in the style of the New Lebanon Meeting House, whether they needed a new place of worship or not.”
Stephen J. Paterwic『Historical Dictionary of the Shakers』(2nd ed.)(Rowman&Liittlefield, 2017)P.28

ニュー・レバノン(マウント・レバノン)での最初の集会所の建設中に、有能なシェーカの職⼈モ ーゼス・ジョンソンが到着した。Father Josephは彼にその仕上げを命じたが、その建物が腰折れ屋根だったのは偶然ではない。おそらくJohnsonが、露出した、間隔の狭い梁と⽅杖を建物の内部に 使⽤したのだ。これらの建築技術はオランダ様式と同様のものとされている。いずれにせよ、1790 年代に集結したシェーカー教徒の共同体は、新しい集会所の必要の如何によらず、ニュー・レバノンの集会所の様式に倣って集会所を建設した。(日本語訳は、福居彩未『18-19 世紀アメリカのシェーカー教集会所建築 ‒植⺠地建築からの形態的発達と礼拝⾏為に基づく空間的特殊性の獲得過程の研究‒』より転載)

上記の記載からわかるように、最初のミーティング・ハウスは腰折れ屋根構造として建てられ、複製される様に他の集落においても建設された。実際に、シェーカーのミーティング・ハウスは腰折れ屋根構造をしていることがほとんどである。
しかし、現在マウントレバノン・シェーカー集落跡地に存在するミーティング・ハウスは1824年に作られたものであり、その屋根の形は腰折れではなく、丸い楕円型をしている(図25)。
この形状には目的があり、それは室内の柱をなくすためであった。シェーカーたちの礼拝運動、激しく体を揺さぶったり輪になって踊ったり、ワーリング・ギフト(Whirling Gift)と呼ばれるくるくると回る運動をこなす為には、柱は邪魔となってしまった。そのために、シェーカーたちは無柱空間を創造したのであった。しかし、腰折れ屋根構造では、その空間の大きさに限界があった。

図26

図27

図28

図29

上の図26~29はHistoric American Buildings Surveyによるミーティング・ハウスの図面である。ここからわかるのは、通常長い側面にシェーカーの男女の入り口が位置していたが、これらは外部からの傍観者用となり、このミーティング・ハウスではシェーカー用の入り口が短い側面へと移動し、ミニストリー専用のドアーを真ん中に施す事で、3つのドアーが並列している。
平面全体の寸法は縦65フィート6インチ、横108フィート2 1/2インチである。1階部分の天井の高さは25フィートである。初期のミーティング・ハウスと比べると、その一階部分の面積は4倍も大きくなり、また天井は2倍もの高さをほこる。非シェーカー用の入り口が集落の主要道路に面している事は、総本山のニュー・レバノン集落は外部からの傍観者も多く訪れたことが起因していると容易に考えられる。シェーカーとしての礼拝、そして暮らしを魅力的に見せたいという願望が現れたのかもしれない。また、この巨大な無柱空間を見せつける事で、外部の者たちは圧倒したに違いない。

現在、このミーティング・ハウスはダロウ・スクールの図書館として使用されている。
図30~35からも分かる様に、現在も耐力壁は室内に一切なく、中央にメザニンがおかれている。天井の高さに比例し、窓も他のミーティング・ハウスよりも高さのあるもので、室内の大規模感を強調している。
2階には個別ブースが作られており、図書館のスタッフが利用するデスクが置かれている。

図30

図31

図32

図33

図34

図35

 

2-2-6. 分析とまとめ

図3〜図5を比べながら現地にいくと、図5のシェーカーによって描かれたマップのスケールが実際と異なる事が確認できた。
また、既往研究では、ファミリー間の距離は3-4マイル(4.8km)と単一的に表記されることもあるが、このマウントレバノン・シェーカー集落では、ノース・ファミリーとチャーチ・ファミリーとの距離は極めて近いことも確認できた。
さらには、全体の集落の利用方法に大きく起因するが、各建物のシェーカーの使用用途と現在の使用用途は異なる。
今回、実際に室内に入って見学することができたのはミーティング・ハウスのみであるがために、他建物のその内部の変化は確認できなかった。
シェーカーは、建設活動を長年続け集落を作ったが、その後も構造をそのまま移動させたり、新たに建設したりといったことを繰り返した。しかし、19世紀のマップと現在のマップを比べると、用途ごとの場所に大きな違いというのは見られない。つまり、シェーカーたちは集落内の建物を移動させたりしていたが、マップが描かれた頃には最適な建物群の配置関係をみいだし、それがマップに描かれていたのではなかろうか。現時点では断定できないが、今回の訪問で実際にその場を歩き確認する事で、シェーカーの集落における配置関係の最終的なかたちに対する仮説を考えることができた。

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