第4章 ハンコック・シェーカー集落  —集落の情報、歴史、建設活動、19世紀集落の構成、現在—

4-1. ハンコック・シェーカー集落について

4-1-1. ハンコック・シェーカー集落の位置づけ

約6km、マウントレバノン・シェーカー集落から国道20号を南東に向かい、マサチューセッツ州のボーダーを超えてすぐの場に、ハンコック・シェーカー集落は位置する。すぐ近くにPittsfieldという小さな街がある。
シェーカー・ソサエティは管轄区制 (Bishoprics) をもち、ソサエティに参加したいくつかのコミュニティをグループ化し、1グループに1つのコミュニティがリーダーとして管轄した。このハンコック・シェーカー集落は、エンフィールド(Enfield, Connecticut)、ティリンガム (Tyringham)とともにグループとなり、ハンコック管轄区のリーダーとして機能した。

4-1-2. コミュニティの秩序への集結とファミリーの設立

ハンコックの地は、1779年よりすでにリバイバル運動という信仰再興の動きが盛んであり、シェーカー教もこの波にのって宣教を広げた。アン・リーが住んでいたウォーターヴリー(当時はニスケイユナと呼ばれていた)を訪れ改修したものもおり、彼らがハンコックにて信仰の指導者であったこともあり、続々と後を追って改修者は増えた。
マザー・アンは1781年より約2年半の宣教の旅にでるのだが、このハンコックには1783年の8月、旅の終盤にやってきた。マサチューセッツ州内では最後の本文場所であった。というのも、常に迫害を受けてきた初期のシェーカーたちであるが、この地での迫害は個人グループのみでなく、逮捕され裁判にかけられ、州より正式に追放されることとなったのである。しかし、最終日には200人ほどが礼拝に訪れ、野外でミーティングを行う余地がなかったほどである。このようにして、シェーカーのメンバーがこの地にて順調に増え、1786年にはミーティング・ハウスの基礎を作りはじめ、翌年から多くの教徒の土地が譲渡され、共同に使用する労働場を作った。そして1つのコミュニティとして認識されるようになった。

しかし、ゴスペル・オーダー発令の1786年後、このコミュニティと、シェーカー・ソサエティ内に所属するコミュニティとでは、意味が異なっていたということが、このハンコックの歴史から読み取れる。まず、ソサエティ化するにあたり、現存のコミュニティは、認められて初めて正式なシェーカー ・ソサエティ・コミュニティとしてみなされた。1789年、当時の最高指揮者であるジョセフ・ミーチャムは、ハンコック・コミュニティがソサエティの一部になる準備ができているか、秩序への集結(gathere into order)としてファミリー体制をとり共同生活が始められるかどうかを確認させたのである。準備ができているかというのは、経済的、物理的なものと、精神的なものも含まれた。ミーチャムの片腕であるヘンリー・クラウ(Henry Clough)はこの場に遣いとして向かうと、教徒の中で罪を全て告白していない者がいるために、このコミュニティはソサエティに入れないと告げたほどである。
また、物理面でも教徒による土地の譲渡、メンバーたちが住むドウェリング・ハウスが1790年より建設され、1791年1月に正式に秩序への集結を果たした。当初は男女約20人ずつであった。

以下に、主な建設活動とファミリー設立の年数を明記する。
• 1786~1787年: ミーティング・ハウス
• 1790年: ソサエティ参加
• 1790~1791年: ドウェリング・ハウス
• 1791年 1⽉: チャーチ・ファミリー
• 1791年1⽉: セカンド・ファミリー
• 1791年: スクール
• 1792年: ウェスト・ファミリー
• 1793年10⽉: イーストファミリー (のちにギャザリング・オーダー⽤になる)
• 1822年60: ノースファミリー
• 1800年61:サウスファミリー

4-1-3. マップから見る集落の構成

図1: ハンコック・シェーカー集落跡地の地図 [出典] Shaker Train Hancock Shaker Village Pittsfield State Forest, Self-guided tour & hike, Hancock Shaker Village

シェーカーにより描かれたハンコック集落全体のマップは現存せず、本レポートではハンコック・シェーカー・ヴィレッジがハイキングマップとして提供しているマップを使用する(図1)。
国道20号線の下に表記されたHancock Shaker Villageはチャーチ・ファミリーの存在した場であり、その20号線の北側にNorth Family dwelling siteと表記されているのがノース・ファミリーの場である。

ハンコック・シェーカーについての先行研究、『Shaker Cities of Peace, Love, and Union』(Deborah E. Burns)によると、1803年にこの集落の人口は142人、その半数がチャーチ・ファミリーで生活し、1830年を人口のピークとし338人が全体に暮らしていた。1840年の時点では6つのファミリーが存在していた。しかし、正確な各ファミリーの配置場所、建物群の情報がまとめられた資料は現時点では手に入っていない。

図2:1820年頃のハンコック集落のマップ。[情報] 作成者不明。Pencil and clue ink on paper。 12 3/4″ x 27″ (32.4cm x 68.6cm) [出典] Robert Emlen『Shaker Village View』

図2は第3章にて紹介した、シェーカーによって描かれたハンコック集落のチャーチ・ファミリー内の建築群が描かれたマップである。この章では『Shaker Village View』に掲載されている図を転載する。
上記の図をもとにして筆者の修士論文にて作成したダイアグラムが図3である。配色を施したダイアグラムを見ると、ファミリー内の建物群の配置関係がみえてくる。公道を間にし、集落の中で最も神聖とされていたミーティング・ハウスが北に置かれ、南側に生活の拠点であったドウェリング・ハウス、労働場、納屋が集中して置かれている。また、ピンクで表した部分が公道やトラスティのオフィスであり、外部のものが出入りする場でもある。スクールハウスも1817年以降、シェーカーだけでなく一般の子供たちの教育の場としても使用された為、この様に外部の者が立ち入る場は北側もしくは集落の端に置かれていることが分かる。

図3

4-2. ハンコック・シェーカー集落、現地調査

4-2-1. ハンコック・シェーカー集落跡地訪問、集落の現在の使用方法

2022年、9月14日、15日の2日間を使い、ハンコック・シェーカー集落チャーチ・ファミリーの跡地を訪問した。
シェーカー・ミュージアムよりは車で約20分ほどであり、マウントレバノン・シェーカー集落跡地からは歩ける距離である。天気がよく、日差しが強く、平地に広がる建物群はその存在感を放っていた。
国道20号はよく車が走り、集落の南側から北側に移動する場合は歩道を通らなくてはならず、注意が必要であった。しかし、マウントレバノン・シェーカー集落と同様、国道側は林があり、東側に行けば行くほど、車道の音は聞こえなかった。

1961年よりハンコック集落は公共のものとなり、ミュージアムと化した。現在もミュージアムとして存在する他、マサチューセッツ州において最古の農家として機能している。図4は現在のハンコック・シェーカー集落のマップである。
西側にはビジターセンターがあり、その中に研究資料館や小さなギャラリーも含まれる。東側の建物群も含め、夏場は10am-5pmと開館しているが、冬場になると春まで閉館する。ミュージアムの開館時は、毎日常にどこかの建物内でボランティアによるツアーが行われていた。
現地調査当日は、図3と4を使用しながらチャーチ・ファミリーの建物群でのツアーに参加し調査を進め、空き時間に資料館で資料集めを行った。

図4: ハンコック・シェーカーのマップ [出典] Hancock Shaker Villageのウェブサイトより。https://hancockshakervillage.org/visit/walking-tour-guidemap/

4-2-2. チャーチ・ファミリーの現在の様子と建物群

ハンコック・シェーカー集落跡地には新旧含め約30の建物が存在し、シェーカー が住んでいた時代からのものは20棟である。いくつかは図面と残っていた基礎をもとに複製されたものであり、いくつかは違うコミュニティより移動し、この集落の土地にて保存している。
ウェルカムセンター(図5)は東側に位置し、大きなゲートの形をしている。ちょうど真ん中には、西側に位置するラウンドバーンが映り込むように配置されている。
ゲートを通り、チケットカウンターを通り過ぎると、その先には木の細い道が集落内部へと進んでいく(図6)。この西側の土地はとても平坦で、広々としている。

上記の道が最初に行き着いたのは、ガーデン・ツール・シェッドとランドリーマシンショップの建物群であった。
ガーデン・ツール・シェッド(図7-8)は1階のみの小屋であり、内部は壁にペグでつるされた庭を耕す道具屋ワゴンの車輪のようなものがあった。

ガーデン・ツール・シェッドの横に位置するのは、ランドリーマシンショップであり、19世紀初期に建てられた(図9-14)。シェーカーたちは、シスターとブラザーで労働の場を分けた建物を持っていたが、同じ建物内で労働を行なっていたことがこのショップよりわかる。
これには技術的要素が関係しており、シスターとブラザーの作業で水力を必要としたものに関して、統合されたのである。かれらはこの建物内に水を引き、水力を利用したり、馬によって機械を動かす力を得ていた。天井から輪につづいているベルトが多数見受けられるのも、これが理由である。
水力を利用した以外にも、この建物内には労働の効率を上げる工夫がなされている。シスターの使用する洗濯場は大理石にて床が覆われているが、ほんのわずかだが床が斜めになっており水捌けをよくしている。
アイロンがけの部屋は2階の乾燥部屋の真下に位置し、1階からの熱気は上に上がる。服が乾燥すると、床に取り付けたハッチ を開き、その穴を利用して1階のアイロン部屋へと落とした。


図5: ハンコック・シェーカー集落入り口。西側のウェルカムセンターより。


図6: 集落内の道。


図7: ガーデン・ツール・シェッド
図8: ガーデン・ツール・シェッド内部


図9: ランドリーとマシンショップ、南西側
図10: ランドリーとマシンショップ、南東側


図11: ランドリーとマシンショップ、1階内部の様子。
図12: ランドリールーム


図13: アイロンルームの様子。
図14: アイロンルームのアイロン台

マシンルームから東へすすむと1878年に建てられた鶏小屋(図15-19)があり、その内部は現在はアート作品の展示に使用されていた。筆者が訪れた際は、日本人アーティストのYusuke Asaiさんの作品が展示されていた。
この小屋は、南側と北側で窓の数が異なる。シェーカーたちは、冬場でも太陽光を少しでも内部に取り入れ、鶏から卵をより多くとる工夫を行なっていたのである。自分たち用だけでなく、外部の者にも卵を売っていたため、この工夫は必要であった。夏場の強い日差し避けとして、南側にはりんごの木を植えた。これは冬になると枯れる為、冬場の日射率には影響を及ぼさない。


図15: 鶏小屋 (Brick Poultry House)、南側外壁

 
図16: 鶏小屋内部、南側の窓。奥にりんごの木が植えてあるのが見れる。
図17: 鶏小屋内部で行われていたアート展示。


図18: 鶏小屋内部で行われていた展示の作品
図19: 鶏小屋内部で行われていた展示の作品。北側の窓。

 


図20: 手前ミニストリーの風呂場、奥ドウェリング・ハウス
図21: ミニストリーの風呂場内部

鶏小屋の北側に集まった建築群があり、そこにはミニストリーの風呂場、ドウェリング・ハウス、ブラザーズショップ、シスターズショップが存在する。
ミニストリーの風呂場は(図20,21)、1階建てで南側に入り口があり、窓が東側のみにある。北側と西側は木で覆われていた。中にはヒーターが設置されており、これにて冬場は湯を沸かしていた。シェーカーたちにとって物理的に清潔であることはとても重要であった。彼らは、1人のメンバーに対していくつかの服や個人用のタオルを渡しており、共有することはなかった。これは19世紀では珍しいことであり、清潔にすることで伝染病から身を守る知恵を持っていたのである。

ミニストリーの風呂場の後ろに位置するのはドウェリング・ハウスであり(図22-39)、4階と屋根裏部屋と地下を合わせ持ち、この集落では2番目に大きな構造である。
1階にはキッチン、ダイニング、ミーティングルームと、生活の中心となるプログラムが配置されている。
キッチンには巨大なオーブンとコンロがあり(図25)、火の元と廃棄口を1つにまとめたこともあるが、100人を超えるチャーチ・ファミリーのメンバーへの食事の提供はこれほどの大きなものが必要であったのだと考えられる。
ダイニングルームはその横に位置し、この部屋にも2つの扉があり(図27)、シスターとブラザーで分かれて部屋に入り、食事をとっていた。
ドウェリング・ハウス内の北側にはミーティングルームが配置され、部屋に入るにはミーティング・ハウス同様、男女別の扉を通り、左右に分かれて礼拝を行なっていた(図28)。内部はダイニングルームよりも大きな部屋であるのだが、柱のない空間をこのミーティングルームでも建設した。
東西に窓が多く取られていることもあり、北側でも十分に室内は明るかった。そして壁埋め込み式のキャビネットから、窓のフレームまで、シェーカーによって木で作られた詳細なデティールは、とても美しく、保存状態もよくできていた。


図22: ドウェリング・ハウスの南側外壁


図23: ドウェリング・ハウスの西側外壁
図24: ドウェリング・ハウス1階キッチン

 
図25: ドウェリング・ハウス1階キッチンにあるオーブン
図26: ドウェリング・ハウス1階キッチンの流台や棚の様子


図27: ドウェリング・ハウス1階ダイニングルーム


図28: 1階ミーティングルームへの2つの扉

 
図29: ミーティングルーム内の椅子の配列
図30: ミーティングルーム内の壁に埋め込まれたキャビネット


図31: ミーティングルーム内の窓から、東側に見えるシスターの労働場
図32: ミーティングルーム内の窓から、ドウェリング・ハウスの北側の階段


図33: 2階への階段

2階への階段も男女別で2つあり、トレッズのノージングは側面にまで飛び出していた(図33)。そしてレールを支えるロッド部分もテイパーがかかっている。どちらのデザインの特徴も、ささやかに浮遊感を漂わせている。
2階にはシスターの寝室、ブラザーの寝室があり、1部屋およそ20〜30平米ほどの中にに2つのベッドが置かれていた(図34-35)。人口の大い時期には、さらにベッドが置かれていたと予想できる。部屋にはベッドの他に、キャビネットが両サイドにあり、窓側にキャンドルスタンド、デスク、椅子、部屋の中心にヒーター、そしてベッド下に陶器の器が置かれていた。

また、隣の部屋にはベッドの間に幼児用のゆりかごがおかれ、その隣の部屋には墓地の石板が置かれていた(図36-37)。生と死をの要素が隣同士に置かれた状態であり、命の誕生と終わりをシェーカー として経験したメンバーを思い起こさせる空間の展示構成であった。
シェーカーには生殖拒否という理念があったのだが、妊娠中にシェーカーに改宗したメンバーも多く、生まれた子供たちはシェーカー ・ベイビーとして集落内にて育てられた。
最後の部屋では、様々なシェーカー チェアの展示がされていた。作成された集落により、多少のデザインの違いがあり、見比べ用のダイアグラムで説明がされていた(図38-39)。シェーカー・チェアにはロッキングチェアとしてゆり動くもの、背中にブランケットをかけるように緩やかなカーブを持っているものなどと、全体のかたちに種類がある。足元のテイパーのかかり具合や、背面の角度なども、年代によって変わってくる。また、座面にもいくつかの素材の違いがある。


図34&35:2階シスターの寝室


図36: 寝室に置かれた幼児用のゆりかご
図37: ハンコック・シェーカー集落の墓地石板


図38&39: 2階の1部屋で行われていたシェーカー・チェアの展示


図40: ミーティング・ルームから見たミーティング・ハウス(左)とミニストリーショップ(右)


図41: ミニストリーショップの北西側外壁
図42: ミニストリーショップの南側階段入り口

次に、チャーチ・ファミリーを東西にわける国道20号の北側へ向かった。図40からわかるように、ミニストリーショップとミーティング・ハウスは、ドウェリング・ハウスよりも西側に位置し、図2のマップに記させているような、真正面の位置にはない。
ミニストリーは、シェーカー集落や管轄区の精神的なリーダーとして男女2人ずつ、合計4人で構成されていた。他のシェーカー集落においてミニストリーショップは、ミーティング・ハウスの2階に元々は住んでいたミニストリー専用の家と労働の場である。しかし、このハンコックではミニストリーはミーティング・ハウスの2階に住み続け、ミニストリーショップは労働用に使われ、食事はドウェリング・ハウス内のミニストリー専用の部屋でとった。また、ミニストリーショップも他集落では1つしか存在しなかったが、この集落では男女別に分けられ、2つ存在した。1つは売りに出され、1873年に移動された。

彼らは、他のシェーカー・メンバーとは住む場所も労働場もわけられ、ミーティング・ハウスに入る動線も異なっていた。図43-44に写っているように、南側に2つの男女別の扉が配置され、東側、つまりミニストリーショップ側にはミニストリー専用の入口ある。
しかしこのミーティング・ハウスは、ハンコック集落に存在したものではないことが分かった。1786年に建てられたオリジナルのミーティング・ハウスは、税金対策と火事を恐れたために、1786年に建て壊されてしまった。現在集落にあるのは、マサチューセッツ州に存在したシャーリー集落(Shirley Shaker Village)のものである。このミーティング・ハウスもシェーカーの1人モーゼス・ジョンソン(Moses Johnson)によってデザインされたものである。
1961年にハンコック集落跡地はミュージアムとなり、その翌年にこのミーティング・ハウスを移動させた。当時の移動の際の写真が、ミーティング・ハウス内に展示されていた(図44-A&44-B)。この写真からわかるのは、1階部、2階部、屋根裏部分と、分けてトラックの上に乗せられて移動し、現在の場所で接合し直した様子である。

室内では、糸を使った参加型のアート作品が展示されていた(図45)。図46の右がわの椅子に置かれた糸を持ちながら歩き、好きな壁につなげる事ができるという内容であった。
図47-50は2階のミニストリー専用の居間と寝室である。灰色がかったブルーのペンキでペグと階段のみが色付けられていた。上下の導線と平行線が強調され、まるで、シェーカーが動き回った奇跡をみているような印象であった。

ミーティング・ハウスとミニストリーショップの東側には、スクールハウスという、子供達が教育を受けた建物が残っている(図51)。室内は20平米ほどと広くなく、勉強用の長机が6脚並び、1つに5人ほど座れるかどうかの長さである(図52)。屋根裏部屋があるのだが、それに続く階段は見当たらなかった。
スクールハウスの目の前には3つのPrivy, つまりトイレが並んでいたが、各集落に散りばめられていたものをここに集約したものと考えられる(図53)。

 
図43: ミーティング・ハウス、南東側
図44: ミーティング・ハウス、南側の2つの入り口


図44-A: シャーリーのミーティングハウス
図44-B: 1階部分がトラック上に乗せられ運ばれている様子


図45: ミーティング・ハウス1階内部
図46: ミーティング・ハウス1階内部。糸を使ったアートの展示。


図47: ミーティング・ハウス2階の寝室
図48: ミーティング・ハウス2階の廊下


図49:ミーティング・ハウス2階の居間
図50: ミーティング・ハウス内部の階段

 
図51: スクールハウス北西側
図52: スクールハウス内部の机


図53: スクールハウス前に並んだ3つのトイレ

集落の中で1番大きな構造は、図54のラウンド・バーンである。これは家畜を飼育する場であった。オリジナルのバーンは1826年に建てられ、1864年に火事で倒れてしまった。その後、当時の集落のリーダーであったエルダーコリンズ(Elder Phidelio Collins)の日記によると、20キロほど離れたワシントン山(Washington mountain)に多くの角材を所有しており、これを使用してすぐに2つ目を建設し始めたという。
牛からミルクを取る際に、牛と牛の間に一定間隔の距離が必要であり、当時50棟ほどの牛を飼育していたため、簡単に100メートル以上の場所が必要であった。その長さをなるべく小さな空間で実現するために、シェーカーたちは円状の納屋というものと創造したのであった。
およそ直径25メートルのバーンは、地下、1階、2階と、3フロアの構造である。しかし、このバーンは丘が盛り上がった場に配置されており、東側は2階に直接入ることができる。ブラザーは干し草の積もったワゴンを引きながら、この2階よりバーンへ入り、帆仕草を落としながら円周を渡った。重たいワゴンを引きながら歩くのは重労働であるとともに、怪我をする恐れがあった。一方方向に歩き続けながら重力を使って干し草を中へ落とし込み、そしてそのまま出口にでるといった、効率的かつ事故を起こさせない作りとなっている。
1階に牛が連れてこられると、円に沿って並びながら、木のフレームに顔を出し、干し草を食べる。バーンの中心に置かれた円筒のかたちをしたものは構造であるとともに、換気口としても役立っている。何トンもの干し草が重なると、湿気がたまり、下の層にあるものは腐ってしまう。これを防ぐためにも、干し草が置かれた箇所の底は2層の床でできており、ここから湿気が真ん中の塔に向かって追い出されるという仕組みとなっている。
また、牛のフンは1階の床にある小さなハッチ より地下へ落とし、フンが乾燥し農家の肥料として使えるようになるまで保管した。このように、ラウンド・バーンはその外観の美しさだけではなく、その構造と仕組みはシェーカーによって考えられた効率と美が調合されたオリジナルのバーンだったのである。
しかし、このバーンはハンコック集落のみでしか建てられず、他の集落によって複製されることはなかった。その理由は、まず材料が高く、調達できなかったことと、そしてハンコックのように多くの家畜を所有していなかったことが理由として考えられる。


図54: ラウンド・バーンの南側
図55: ラウンド・バーン内部


図56&57: ラウンド・バーン内部、中心のキュポラ

 

集落の東側に位置するのは、トラスティが使用したオフィスであった。このオフィスは集落内で1つだけ建築様式がことなり、ヴィクトリア朝となっている(図58-64)。
西側を向いたポーチにはロッキングチェアが置かれ、あまり見受けない黒と白の組み合わせであった。中に入ると、今までのシェーカー建築の内装とは大きく異なった。
壁紙、証明、シンク、キャビネット、暖炉、テーブルと、一般的なシンプルシティとして受け取られているシェーカー・スタイルとは異なる。ただ共通しているのはシェーカー チェアのみであった。オフィス内は1階のみがアクセス可能で、2階と屋根裏部屋は見ることができなかった。


図58: トラスティが使用したオフィス


図59: オフィスのポーチ


図60&61:オフィス1階西側のラウンジ

 
図62:リビングルーム
図63:廊下
図64:廊下奥に設置されたシンク

次に訪れたのは、オフィスとラウンドバーンの間あたりに位置するアイスハウスであった(図65)。食料の冷蔵保存を目的として作られた建物である。2階建、屋根裏ありの構造であり、窓は一階に一つ、屋根裏に1つである。室内は石造りであり、小さなブースのように小分けされており、とても窮屈であった。
壁と壁の距離が短かすぎたことと、光がほとんどなかったために、内部の写真は撮ることができなかった。

最後に3つの労働の場を訪れた。1つ目はブラックスミス、つまり鍛冶場である。1階部分がレンガと石造であり、2階と屋根裏は木造である(図66)。内部の火事場は道具や作業台などは置かれておらず、こぎれいに片付けられていた。壁には有名なシェーカー デザインの1つである鉄のドアーリバーが数種類立てかけられていた。2つ目と3つ目は、シスターとブラザーの労働場であったショップである。どちらも黄色くペンキで外壁を塗装されている(図79&71)。シスターショップ内には、当日は入ることができなかった。
ブラザーズショップには3つのドアがついており、2つは1階の2つの部屋につながっており、真ん中のドアーは2階への階段であった。1階はオーバルボックスなどウッドワーキングスペースであり(図72)、2階部は錫を使ったテーブルウェア作成場であった(図73)。
1階部と2階部で入り口を明確に分け、ほこりや木くずが2階に入らないようした工夫だと考えられる。


図65: アイスハウス


図66: ブラックスミス西側外壁


図67:ブラックスミス内部


図68: ブラックスミス内部、廊下と階段
図69: ブラックスミス内で制作した鉄のリバー

図70:シスターズショップ西側
図71:ブラザーズショップ南側


図72:ブラザーズショップ内部
図73:ブラザーショップ内部、錫製場

4-2-4. 分析とまとめ

1791年に創立され、1961年にミュージアムとなったハンコック・シェーカー集落跡地を訪問した。西のウェルカムセンターから東のオフィスまでは約400メートルあり、各建物もおおよそ数十メートル離れた構成であった。約15棟の外観と内部を確認することができた。建物によっては、1階や2階のみまで観覧することができ、全ての階を見ることはできなかった。
どの建物も保存状態が良く、綺麗に整理され、いきいきとした空間といった印象であり、あたかも現在もシェーカーが住んでいるかのようであった。特にミーティングルームの窓枠やキャビネットはとても良い状態であるとともに均等な細かさのあるデザインであり、元々の材料や加工の仕方といった技術も、質の高さが伺えた。
しかし、1820年代に描かれたマップ(図2)と比べると、現存する建物の数は約半数以下であり、具体的な配置場所も異なる。集落全体の配置構成において、南側に生活の場が集中している点は同じである。
図2との違いの理由は、描かれた当時は集落はある一定まで発達した時期であったが、その後さらに技術的発達・変遷を迎えたからと考えられる。水力を建物内に取り入れたランドリー・マシンショップや、ラウンドバーンが載っていないことがその何よりの証拠ではなかろうか。

 

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