(1)金髪で作られた腕輪……近頃の法律によって禁じられた封印の個所を自然が解放しても、二人の手は触れることはなかった……

対訳出典:高木登「ジョン・ダン全詩集訳」
http://mineyo-tk.main.jp/kangeki/jondan/utatosonet/uta39.html (2021/09/06 最終閲覧)

(2)離婚法

アメリカで初めての離婚裁判は1682年に行われ、1776年以降、離婚法の規制は緩和された。離婚裁判を行うことは、立法府にとってより重要な仕事であるため、司法に委ねられ、現在に至っている。ケンタッキー州での離婚法適用の歴史は確認できなかった。

出典:「History Cooperative」
The History of Divorce Law in the USA | History Cooperative (2021/09/06 最終閲覧)

(3)シャトー兄弟

シャトー兄弟とは、オーギュスト・シャトー(René AugusteChouteau, 1749? -1825)とピエール・シャトー(Jean PierreChouteau, 1758 -1849)兄弟を指す。ピエールはオーギュストの実母と、その再婚相手でオーギュストの養父、フランス出身のピエール・ラクレド(Pierre Laclède Liguest, 1729-1778)との子で、オーギュストと異父兄弟にあたる。シャトーとは、ピエール・ラクレドの子どもたちが共通して受けた洗礼名である。2人の養父ラクレドは旧フランス領ルイジアナの一部、現ミズーリ州東部に1764年にセント・ルイスを建設した。その前年1763年より貿易会社を設立、貿易権を独占したが、その後フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)の終結後の調停によりフランスのルイジアナからの撤退が決まった際、貿易独占権を失い一度は倒産する。シャトー兄弟はその後、原住民(主にオセージ族)から高品質の毛皮を仕入れて販売する毛皮商として成功し、一財を築いた。シャトー兄弟は原住民の文化を尊重し、公正な取引を行い、また高品質な商品を原住民へ提供することによって、原住民からの信頼を得たとされる。

出典:「The State Historical Society of Missouri -Historic Missourians -The Chouteau Brothers」
https://historicmissourians.shsmo.org/historicmissourians/na
(2020/09/10 最終閲覧)

(4)スリー・フォークス

スリー・フォークスはオクラホマ州のワゴナー郡、マスコギー郡、チェロキー郡を流れる、アーカンソー川、ネオショ川(グランド川) 、ヴェルディグリス川の3河川の合流地点である。旧くからカドー族、オセージ族、ウィチタ族など多数の原住民部族が生活していた地域で、1700年代以降にヨーロッパ系アメリカ人が入植した。同地域の発展にはシュトー家の事業が大きく関わっており、1796年には、ピエール・ラクレドはネオショ川流域に交易所を開設し、交易を促進するためにオセージ族に近くへ移住するよう奨励していた。後に息子のオーギュストとピエールがこの交易所を管理、貿易業を拡大し、ヴェルディグリス川に新しい施設を建設した。他のヨーロッパ系アメリカ人のトレーダーは近くに拠点を設け、この地域は毛皮(ビーバー、バイソン、シカ等)とヨーロッパの貿易商品の交換のための重要な経済拠点となった。また、アーカンソー川を伝って東部の市場へ容易にアクセスできるルートも開拓された。

出典:「Oklahoma Historical Society -Three Forks Area」
https://www.okhistory.org/publications/enc/entry.php(2020/09/14 最終閲覧)

(5)オセージ族

オセージ族はアメリカ・インディアンの部族で、その祖先はオクラホマ州の広域を領地としていた。1200年頃にオセージ族およびその敵対部族のイロコイ族はケンタッキー地域を出発し、ミシシッピ以西へ向かい、以降はフランス領ルイジアナ地域の多くを侵攻、領有した。

出典:「Oklahoma Historical Society-Osage」
https://www.okhistory.org/publications/enc/entry.php(2020/09/14 最終閲覧)

(6)牧師

第1章でもあるように主人公(レベッカ)の家族はプロテスタントの長老派であるため、ここでは牧師と訳出する。

(7)私たちがかつて定住した部分は、現在はインディアンの地域となった。

1824年ごろ、トーマス・ジェファーソン大統領をはじめとする政府は、ミシシッピ川東部のインディアンを川の西部に定住させることを支持し、奨励していた。1830年5月28日のインディアン排除法の成立後、政府は彼らを強制的に排除し、編入領地である川の西側の土地に再定住させた。最も影響を受けた部族は、オーセージ族、チェロキー族、クリーク族、セミノール族で、これらの部族は現在のオクラホマ州東部にあるフォート・ギブソン付近の土地に移された。

出典:「Headquarters Records Fort Gibson, Indian Territory 1830-1857」NATIONAL ARCHIVES TRUST FUND BOARD NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION WASHINGTON: 1987

(8)カントンメント・ギブソン

カントンメントン・ギブソンは軍の宿営地であり、この地域ではフォート・ギブソンが、1824年4月にアメリカ政府の西方拡大政策とインディアン排除のためにカントンメント・ギブソンとして設立された。1824年5月26日に制定された法律により、アーカンソー州の西の境界線が約40マイル延長された。この法律を見越して、陸軍は当時最西端の軍事基地であったフォート・スミスに駐屯地を設置する必要があると考えたためである。

出典:「Headquarters Records Fort Gibson, Indian Territory 1830-1857」NATIONAL ARCHIVES TRUST FUND BOARD NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION WASHINGTON: 1987

(9)ドッグ・トロット

19世紀中ごろから20世紀初頭にかけてアメリカ南東部で建てられた住宅の形態の一つ。左右の同じボリュームの室内空間を中央で幅の広い廊下が分断している平面計画が特徴である。廊下はドッグトロット(dog-trot)又はドッグラン(dog-run)と呼ばれ、3メートルから4.5メートル程と幅が広く、両端は外へと開かれている。これは風を通して室内を涼しく保つための工夫であった。

出典:StevenHoll ”Pamphlet Architecture 9: Rural and Urban House TypesPaperback–November 1, 1995” Princeton Architectural Press, 1995
Virginia Savage McAlester“A Field Guide to American Houses: The Definitive Guide to Identifying and Understanding America’s Domestic Architecture (English Edition)Revised, Expanded Edition, KindleEdition” Knopf; Revised, Expanded Edition, 2015

(10)ショーニー・ラン

ケンタッキー州の地域であり、ここでプレザント・ヒルが設立した。

出典:Donald E. Janzen「The Shaker mills on Shawnee Run: historical archaeology at Shakertown at Pleasant Hill, Mercer County, Kentucky : report of archaeological investigations, 1975-1978」1981