第3章 シェーカー・ミュージアム —Administrative Campus and Research Library—
3-1. シェーカー・ミュージアムについて
2022年、9月13日の午後、マウントレバノン・シェーカー集落の跡地より車で約20分ほど西に位置する、シェーカー・ミュージアムを訪問した。(図1&2)
シェーカー・ミュージアムは、家具や工芸品、服や薬のガラス瓶など、シェーカーの残した様々なコレクション、約56,000点をアーカイブしている。また、日記や一次資料といった研究資料を貯蔵する機関としても働いている。
創立者のジョン・ウィリアム (John S. Willimas)は1920年代より、シェーカーのアメリカの歴史における価値を見出し、直接シェーカーから工芸品などを集め始めた。
シェーカーとジョンの信頼関係が築かれると、シェーカーたちは彼にアン・リーの着ていたエプロンなど、重要な資料や貯蔵品を渡し始めた。シェーカーの人口が下がる中、彼らはジョンにミュージアムを設立してもらいたかったのである。そしてジョンは1950年に美術館を設立した。
現地ミュージアムの看板上に、1966年にこの場で撮影されたジョンの写真を確認することができた(図3)。
3-2. ミュージアムの保持するコレクション
当日はミュージアムのディレクターでありインテンショナル・コミュニティの研究者である、ジェリー・グラント(Jerry Grant)にミュージアムの作品を案内してもらった。
実際には、近年、このミュージアムのコレクションは一般公開しておらず、ジェリーと前もってアポイントメントを取ることで中を見学することができる。
まずはじめに通されたのは、鉄の棚が敷き詰められた天井の高い大きな部屋であった。そこには、棚に一切の余裕なく置かれた、数多くの様々なシェーカー・チェア(図5)、ベンチ(図5)、チェスト、キャンドル・スタンド(図6)、オーバル・ボックス(図7&8)が保存されている様子があった。
各棚の柱には、保存物の情報が記載された書類が付けられており、その書類の数も多かった。
これらコレクションは既に全て写真に記録されており、一部はミュージアムのウェブサイト上で確認することができる。
室内は湿気や室温を調節する設備が整っており、その空調設備が作り出す大きな音で包まれていた。しかし、この部屋に入る扉は一般的なものであり、いくら空調設備が働いていたとしても、完全に湿気を遮断することはできない様子であった。
次に廊下へ出ると、その場はシェーカー ・ペグが壁に施されており、箒が下げられていた(図9)。細かい修理道具など、備品が棚に置かれ、廊下は収納場所として使用されている。
そして廊下の奥には2部屋あり、その1つには再度鉄の棚がおかれ、その中にはオーバル・ボックス(図10)、ソープボックス(図11)、バスケット(図12)が敷き詰められていた。
最初の部屋に比べると、そのボックスの状態やデザインからして、年代の古いものであると推測できる。
最後の部屋では写真撮影をすることができなかったが、その場は他の部屋に比べると多少薄暗く、棚ではなく扉のついた鉄のキャビネットがあり、鍵がかけられていた。その中から木のフレームに入った、青と白の糸で裁縫された布をジェリーがみせてくれたのだが、これは1774年にアン・リーがイングリッシュ・シェーカーとともにニューイングランドに到着した時に着ていたといわれる服の一部であった。
3-3. ミュージアム付属の資料館の保持するコレクション
ミュージアムがコレクションを保存する建物(図13の番号1)から駐車場を超えた場に、小さな建物があり、ここが資料館である(図13の番号2)。
資料館の室内は、約60平米ほどのこじんまりとした1部屋であり、そこにはジェリーの仕事机と、書籍や資料が置かれた棚で埋め尽くされていた。(図14&15)
棚は1次資料、2次資料、シェーカーに関連した小説などとおおまかにジャンルで分かれており、図16のように中谷研究室でシェーカー研究の柱として使用した『The Believers』(Janice Holt Giles, Houghton Mifflin Company, 1957)も確認できた。
また、1次資料の棚には、シェーカーの教理とアン・リーについての証言が書かれた『Christ’s Second Appearing』といった貴重な本も貯蔵している。(図17)
また、この資料館には約大きさ3メートルx 1.5メートルのマウントレバノン・シェーカー集落を記録したマップがあり、これはジェリーとボランティアたちで少しずつ時間をかけて描いたものである(図18-22)。
マップより確認できたのはセンター・ファミリー(2nd Order)、ノース・ファミリー、サウス・ファミリー、セカンド・ファミリーであった。
チャーチ・ファミリー以外のファミリーの建物群に関する文献が少ないだけでなく、現存しない建物など、建物が移動する前の情報も書かれ、とても貴重なマップである。しかし、このマップは実際に現地の現存する構造や基礎から得た情報と、文献から得られた情報で構成され、その文献の出典などは記録されていないことを注記する。
シェーカーによって描かれた1次資料のマップも2つ所有しており、図23は1806年ごろにリチャード・マクネマーというユニオン・ヴィレッジのリーダーによって描かれた、建設途中のユニオン・ヴィレッジのマップである。
図24は1820年ごろに作成されたハンコック集落である。これはRobert Emleの『Shaker Village View』によると、同じ頃に描かれたマップの複製をシェーカーが作ったもので、オリジナルのものと比べると筆者の意図が反映されていないと分析されている。
3-4. 未来のシェーカー・ミュージアム
このシェーカー・ミュージアムにあるコレクションは、上にも述べた様に、現在は研究目的での訪問時以外は一般公開されていない。
しかし、世界一のシェーカーの工芸コレクションを誇る同ミュージアムは、一般公開のために新たな場所へと移ることになっている。ニュー・シェーカー・ミュージアムが建設中であり、来年の2023年中にオープン予定である。
場所は同じくニューヨークの郊外であり(Chatham, NY)、セルドーフ・アーキテクツ (Selldorf Architects)によって、19世紀に建てられた赤煉瓦の構造でできたホテルを改修して創り出すミュージアムがデザインされた。
新たな構造も付け足され、古い部分と新しい部分は中のプログラムやファサードデザインで視覚的にも分けられるが、空間上にメインで使用されるティンバーのビームにて繋がれる。また、間に作られる3階だての空間部分は、壁がガラスで施され、さらに新旧を繋げる橋として強調される。
ミュージアム前の小さな庭や道などのランドスケープはネルソン・バード・ウォルツ・ランドスケープ・アーキテクツ(Nelson Byrd Woltz Landscape Architects)によってデザインされ、シェーカー 特有のものをコンセプトに練り込んだという。
そこには、小さな円状の庭があり、シェーカーが自らを経済的に支えた医療用ハーブの花で囲まれている。円はシェーカーが礼拝時に踊り輪をなしたことより、かたちがデザインされた。このランドスケープは、シェーカーの生活の特性に対する尊敬心を表現したものかもしれない。
もしくは、円となり踊っていたとてもエクスクルーシブな彼らを見学していた傍観者が、外部とのつながりを保ったハーブとして現れ、ミュージアムと世界とを繋げる役目としても見ることができるのではなかろうか。
この新たなシェーカー・ミュージアムは、歴史や工芸品、そして過去の人々の生活を、デザインとテクノロジーにて保存・再生するだけでなく、未来へのベクトルを持った機関として働く。これは、まさしくシェーカーが150年以上にもわたって毎日の生活を創造し、数多くの苦難や時代の変化に引き合わせていったことを具体化したもののようである。
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