第6章 カンタベリー・シェーカー集落  —集落の情報、歴史、建設活動、19世紀集落の構成、現在—

6-1. カンタベリー・シェーカー集落について

6-1-1. カンタベリー・シェーカー集落の位置

カウンターベリー・シェーカー集落はノースハンプシャー州に存在し、コンコード市より北約17kmに位置する。ニューレバノン(マウントレバノン)シェーカー集落の北東に約200km離れている。マサチューセッツ州の中心として働いたハーバード・シェーカー集落からは約115km北上した場である。
ノースハンプシャー州にはもう1つエンフィールド(Enfield, NH)というシェーカーの集落があり、この2つが管轄区として一緒になり、カンタベリー・シェーカーのミニストリーが管理する役目をもった。
3代目指導者、ジョセフ・ミーチャムの片腕であったヘンリー・クラウフや、多くの集落にてミーティング・ハウス建設に貢献したモーゼス・ジョンソンもこのカンタベリー出身である。

水源に恵まれた地域であり、チャーチ・ファミリーより北約5kmの場にダムをもち、各ファミリーへと水路を確保した。最大で1200ヘクタールの面積を所持し、種子産業とハーブ産業に長けた集落であった。

図1: カンターベリー・シェーカー 集落跡地 [出典] Google マップより

6-1-2. コミュニティの歴史と建設活動

カンタベリー・シェーカーの歴史は、マサチューセッツ州のハーバードとのつながりから始まった。1780年代初期に、アン・リーは宣教の旅でハーバードをよく訪れた。ミーティングもよく行われ、シェーカーだけでなく他のキリスト教によるリバイバル運動も盛んであった。
1781年、カンタベリーのプロテスタント協会の信者はシェーカーの噂をききつけ、アン・リーに会うためにハーバードへ向かい、その場で改宗した。すぐにアン・リーは宣教者をカンタベリーへ送り、シェーカーは多くのメンバー改宗に成功した。ヘンリー・クラウフもこの時期にシェーカーとなり、ゴスペル・オーダーが発令されすぐ、1787年にニューレバノン へ引っ越した。

このカンタベリーにて、1781年より約10年間の間で、シェーカー・コミュニティは順調に成長した。とても結束力の強いコミュニティであったと伺える。というのも、ミーチャムがゴスペル・オーダーを発令し、このコミュニティをソサエティの一部に入れようとしたが、抵抗を示したのであった。
ニューレバノンよりエルダーを送り、説得を試みたがそう簡単にはことが進まなかった。そこでミーチャムのとった行動は、このコミュニティのメンバーを解体し、他の集落へ送り、ニューレバノン とエンフィールドのメンバーをカンタベリーへ送る、というものであった。これにて、カンタベリー・コミュニティは正式にソサエティの一部となった。しかし、秩序への集結として、集落はまだもっていなかった。
その後この地にて1792年にミーティング・ハウスを、1793年にドウェリング・ハウスを建設し、チャーチ・ファミリーの基礎が整った。こうして、東部の他のシェーカー集落に比べ数年の遅れがあったものの、カンタベリーは正式に秩序への集結と題し、集落内にて生活をし始めた。

1850年代に人口のピークを達し、約300人が集落全体に住み、1200ヘクタールに広がった100以上の建物で生活と礼拝、労働を行った。

以下に集落内のファミリー設立年を記載する。
1793年: チャーチ・ファミリー
1800年: セカンド・ファミリー
1801年: ノース・ファミリー
1803年: ウェスト・ファミリー

6-1-3. マップから見る集落の構成

図2: シェーカーによって描かれたカンタベリー集落全体のマップ [情報] By Henrry Clay Blinn, 1848, Pencil, ink, and watercolor. 38 7/3″ x 81 1/8″ [出典] Robert Emlen 『Shaker Village View』

図3: 集落全体のファミリーの構成を現したダイアグラム [出典] 図2を使用し筆者が加筆

1848年に描かれたカンターベリー集落のマップには、ノース・ファミリー、セカンドファミリー、チャーチ・ファミリーの3つのファミリーが示されている(図2&3)。南北を走る公道に沿って配置され、チャーチ・ファミリーが集落の南側の最短に位置する。
翌年の1849年に描かれたチャーチ・ファミリーのマップ(図4)では、建築群の配置構成が読み取れる。図5は図4をもとに建物の番号と用途を示したダイアグラムであり、図6は用途別に色分けしたものである。
ハンコック同様、公道にて全体の構成は分けられ、片方に大部分の建物群が位置している。大きな配置構成の違いは、チャーチ・ファミリーの約80%近くの建物が公道に対し垂直に、つまり南側に長い側面が向くように配置されている。また、その配置構成に従って、集落内を遠る細道も公道に対し垂直である。このような配置構成は、ウォーターヴリートで見られるパターンであるが、その他集落では見られない。
また、ミーティング・ハウスとドウェリング・ハウスも公道に沿わず、細道上に存在する。しかし、ドウェリング・ハウスとミーティング・ハウスが対面であるという位置関係はマウントレバノンを除き、他の集落と同じである。ドウェリング・ハウスの後ろ側に、労働場が集中しているのも、シェーカー集落の1つのパターンである。

図4: シェーカーによって描かれた、チャーチファミリーのマップ [情報] By Peter Foster (b.1893), 1849, Pencil, ink and watercolor. 16 1/4″ x 12 3/8″ [出典] Library of Congress. https://www.loc.gov/item/00552211/

図5: チャーチ・ファミリーダイアグラム 01。筆者作成

図6: チャーチ・ファミリーダイアグラム 02。筆者作成

 

6-2. カンタベリー・シェーカー集落、現地調査

6-2-1. カンタベリー・シェーカー集落跡地訪問、集落の現在の使用方法

2022年、9月20日、21日の2日間を使い、カンタベリー・シェーカー集落チャーチ・ファミリーの跡地を訪問した。集落の南北を通る公道は車も人の通りも少なく、とても静かであった。天気は曇りと晴れの移り変わりが多く、小雨も時折降った。

1969年にこのカンタベリー集落の遺産を保存する非営利団体としてミュージアムが設立された。当時はまだシェーカーが集落に住んでおり、最後のシェーカーであるシスター亡くなったのち、1992年より全体をミュージアムとして一般公開している。National Historic Landmarkとして指定され、現存する建築や工芸品の保存と、シェーカーに関する教育の場を与える事をミッションとしている。
現在25の建物が現存し、4つの再構築された建物を所持している。現在の全体の土地の大きさは約700エーカー、280ヘクタールほどである。図7はカンタベリーシェーカーの提供するマップであるが、ここには新旧32棟が乗っている。

1日、約4種類のガイドツアーを行っており、1つに対し$30、約90分のツアーであった。一般公開などせず、ツアーでしか入れない場などもある。当日はツアー参加者は各回20人ほどと多く、移動に時間がかかったり、写真が取りにくい状況が多かった。
資料館も集落内に存在するが、研究者がアポイントメントをとって入れる場であり、小さなオフィスと資料が1棟の建築に丸ごと保存されていた。このツアーに参加しながら、合間に資料館にてマップや建設活動に関する1次資料、2次資料を探した。

図7: カンタベリー・シャーカーの現在のマップ [出典] Canterbury Shaker Village

6-2-2. チャーチ・ファミリーの現在の様子と建物群


図8: カンタベリー上空からの写真 [出典]チケットカウンター横にて流していた映像を筆者が撮影。


図9: シェーカー ロードを南から北の方角に撮影


図10: シェーカー ロードから東向きに撮影。右手には灰色の外壁を持つInfirmary。


図11: 図7のマップ14番Enfield Houseを右手にし、北向きに撮影。


図12: 21番East Woodshedを右手に、南向きに撮影。

調査当日は、まず集落全体を歩き回り、その配置構成や丘に注目した。
まず確認できたのは、公道の西側が平坦なのに対し、東側は図9-11よりわかるように、奥に行くほど地面があがっていた事である。東側は丘に建物群が配置されていたのであった。
そして図10や12にて確認できるように、建物群は列をなすように並べられ、中心ではなく側面の位置が合うように配置されていた。

全体を見回した後に、資料館である14番のEnfield Houseへ向かった(図13-15)。その場にて、資料アーカイブ担当のレネー・フォックス(Renee Fox)と対面した。
このEnfield Houseはエンフィールド・シェーカー集落より移動してきたものであり、元々は1826年に建てられたものである。東側に上がった丘の上に合うように、基礎が付け足され、階段も延長された。この1階に10平米ほどの小さな部屋がレネーのオフィス兼書籍や書面での資料の保存場であった。
Enfield Houseの2階、3階、屋根裏部屋はマップやシェーカーの服、食器などあらゆるものが乱雑した状態で保存されていた。その場は薄暗く、乾燥していた。レネーによると、このEnfield Houseがこの集落の中で1番湿気がなく、物を保存するのには適しているという。その理由は定かではないが、壁の接合具合や壁の中の断熱材の素材と量、使用された木材のコンディショニングの質などが起因していると考えられる。


図13:Enfield House南側より撮影


図14 & 15: Enfield House 南側、西側より撮影。

次にツアーに参加し、ドウェリング・ハウスへと向かった。地下1階、地上3階と屋根裏をもつこのドウェリング・ハウスは、ハンコックやマウントレバノンのレンガ構造ではなく、木造で白の外壁をしている(図16)。
1階のキッチで見られたオーブンは、ハンコック集落と同様におおきなものであった。内部に入って印象的だったのは、比較的天井が低く感じたことであった。
そしてミーティング・ルームへいくと、そこには長細いシェーカー ・ベンチがおかれ、その奥にはオルガンが置いてある。やはり天井が低いため、オルガンの高さにあわず、結局床をさげることにしたという。
2階3階は寝室であり、内部を見ることはできなかった。しかし、屋根裏部屋には行くことができ、壁埋め込み式のキャビネットが両面に施されていた。ここに冬場と夏場のリネンなどをわけて収納していたという。屋根裏部屋はとても暗く、天井には照明が付け足されている。


図16:ドウェリング・ハウス北側外壁


図17: 1階のキッチンにあるオーブン


図18-19: ミーティング・ルームとその奥にあるオルガン


図20: キャビネットで埋め尽くされた屋根裏部屋

次に チャーチ・ファミリー内の南東に位置するミニストリーショップとミーティング・ハウスの見学に向かった(図21)。1792年に建てられたミーティング・ハウスは、図4のマップに描かれているようにフェンスにて囲まれており、集落内を走る石板の道がここまでのびている(図22-23)。ミーティング・ハウスの南側、教徒たちの男女別2つのドアーがある側は、気が生い茂っており全体の面を撮影することができなかった。他集落のミーティングハウス同様、数ステップを登って中に入る。
室内は無柱であり、この床は1792年のオリジナルのものであり、シェーカーの踊ったあとによる傷が確認できたが、全体としてはとてもいい状態で残っている。これには、床の構造が関係してくる。通常、基礎のFootingから伸びた柱と床の下はCellarという空洞の空間を持つことが多いが、シェーカーたちはこのミーティング・ハウスの床を強化するべく、この中に土を入れ圧力を分散させた。さらに、まず一度床を引くと、再度床を引き、2重構造を持たせた。


図21: 黄色い外壁のミニストリーショップとその右手にあるミーティング・ハウス


図22: ミーティング・ハウスのフェンス
図23: ミーティング・ハウスの片方の入り口


図24: 室内


図25: ミニストリーショップ西側入り口

図26-27: ミニストリーショップ内のデンティストの部屋

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